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21創造運動

農業用水の歴史

 関川水系土地改良区には歴史ある用水路などが多数あり、先人の努力により引き継がれ現在に至っています。

上江用水路

 上江用水は、多くの農民の努力で掘り継がれた用水です。およそ400年前から掘り継ぎ工事が始まり、資金の目途もなく、また山の中腹を縫う地形のため大変難しい工事でした。
 しかし、清水又左衛門や下鳥冨次郎などの偉大な先人のおかげで少しずつ掘り継がれ130年かかって完成しました。その後、昭和に入ると、国営事業や県営事業によって改修され、現在に至っています。
 幹線水路の延長は約26kmで、約3,000haの水田に灌漑しています。

川上権現社

 遡ること江戸時代、関川沿いにあった上江用水路は、大雨が降るたびに関川が氾濫し、流失破壊にあい、一滴の水も流れず、下流の農民たちを悩ませていました。
 そこで1810年、川上集落の松岡伊右衛門方にお願いし、同人の屋敷の下に、繰穴隧道を掘削しました。当時の工事概要として、幅約3.3m、高さ1.7mの馬蹄形で、長さは220m、工事動員数は4280名、費用は約金122両かかりました。
 この時、人力の難工事であったため、工事の安全を祈願して建立されたのが川上権現社です。毎年4月21日には、地元民によって厳かに例祭が執り行われています。
 近年になり、国営工事でこの隧道の詳細調査をしたところ、歪みもなく、また内部補強の必要もなかったことから、当時の高度な土木技術がうかがえる施設であります。

上江北辰神社

 上江北辰神社を語る時に忘れらてはならないのが、上江用水掘り継ぎの功労者である下鳥冨次郎です。
 今から300年以上前、干ばつが続き、田は干上がり、人々の苦しい生活も極限に達する中、冨次郎の祖父源助は、川浦ほか64ヶ村とともに、上江用水の掘り継ぎを、2度にわたり川浦代官所に願い出ましたが様々な障害があり、許可されませんでした。
 そして、冨次郎の父、源右衛門もその遺志を継いで尽力しましたが、不幸にして病気によりこの世をさり、目的を達することができませんでした。
その後、冨次郎は、祖父・父の遺志を受け継ぎ、幾度の大干ばつに見舞われる中、再び出願し、冨次郎が26歳の時、ようやく自営工事の許可をもらいました。
 この工事は全国的に見ても有数の難工事で、特に有名なのは岡野町の三丈掘で、石山を繰り抜く櫛池川のトンネル約160mの工事は冨次郎自らの現場指導により完成したものです。
また、工事には莫大な費用がかかったため、自分の田畑を売ってその資金に充てました。
 このように3代にわたる掘り継ぎの悲願は、90年の歳月を費やし、ようやく用水が完成しました。その後は、毎年のように干ばつに悩まされていた村々の田畑は、一転して肥沃な美田になりました。
 冨次郎は、北辰大明神を信仰され大事業成就の祈願を毎日怠らなかったことから、上江北辰大明神として鎮座され、併せて当時の功労者を、守護神として祭り、永く後世に伝えています。

上江用水記念公園

 上江用水記念公園は、開削当時の天正年間から板倉発電所ができる昭和15年までの間、関川を直接堰き止め上江用水に取水した旧取入口跡地です。
 現在では、先人の築いた上江用水発祥の地として、記念公園として整備されています。旧取入口のモニュメントなどの設置や桜を植樹したことで、地域住民の憩いの場となるとともに、春になると満開の桜が咲くことから訪れる人々の目を楽しませています。

中江用水路

 中江用水の開削は1670年頃の大干ばつの後、農民の代表12人が中心となって、小さい川を掘り継ぐ工事を開始しましたが、資金がなくなり、高田藩へ藩営事業として願い出ました。これを受けた高田藩は、中江用水の開削を首席家老小栗美作に命じ、約5年の歳月をかけて完成しました。当時、中江用水の延長は、約26kmで、越後最大の用水でした。
 その後、昭和に入ると、国営事業や県営事業によって改修され、現在にいたっています。幹線水路の延長は約10kmで、約2,400haの水田に灌漑しています。昔の中江用水の原形は一部しか残っていませんが、幹線用水路から県営3号用水路、重川を経由して保倉川に通じていたといわれています。

小栗美作翁墓所

 小栗美作は、優れた頭脳と行政手腕をもち、1665年の高田大地震の復興に努め、今日の高田市街の区画整理を行いました。さらに、殖産興業のため、直江津港の補修、関川の川さらい、西中江用水の開削、大潟保倉谷新田の開発など多くの事業の行いました。中でも有名なものは、野尻湖に源流をもとめた、延長26㎞の中江用水路は、300年以上たった今でもその恩恵を受けていて、まさに上越地方振興の偉大な先駆者であります。
 このように「万代不易」の功績を遺した美作ですが、越後騒動のため、その張本人として悪名を着せられ、天和元年6月22日息子大六とともに切腹を命ぜられ、無念の死でありました。
 ともあれ、美作の偉業こそ上越地方の美田を潤し、さらに水力発電の源となり産業の発展に大きく貢献した功績は不滅であります。

野尻湖

 野尻湖は、長野県信濃町にあり、海抜654mの高所にあり、周回は17.5km、湖水面積は450haです。湖岸線は複雑でその形が芙蓉の葉に似ていることから別名「芙蓉湖」ともいわれています。
 江戸時代に河村瑞賢がこの湖を視察し、この水を池尻川に落水して中江用水に利用することを考え小栗美作に助言しました。
 当時、高田藩は北信地方に勢力を持ち、野尻湖の水利権を持ったのでしょう。
 しかし、利用価値の高い野尻湖は、他の事業を志す人達に狙われることが多く、中江と野尻村は長い間この水利権を守るために苦労しました。このように、明治から平成の現在まで、中江と野尻では連合体をつくり、水利権の確保に努めてきました。
 そして320年以上たった今でも、6月1日から9月10日まで、977万トンが農業用水として利用できるのです。
満々と水をたたえる野尻湖。しかしそこには大きな問題が残されていました。
 野尻湖は周辺から流入(りゅうにゅう)する河川が乏しく、わずかに鳥居川の水を分流して伝九郎用水に通じて湖水に注ぐのみでありました。そのため、特に降雪の少ない年は、野尻湖を満水にすることができずに大変苦労していたのです。
 この問題を解決したのが、昭和9年、国友末蔵(くにともすえぞう)によって作られた池尻川揚水式発電所です。これは、雪解けの水がたくさんある時期に余剰電力を利用して、関川の雪解け水を逆に野尻湖に汲み上げる方式で、渇水期にはその水を落水し発電しようというものでした。この事業はまさに画期的で、日本最初の方式となりました。
 これによって、安定した用水源が確保され、中江用水も水を充分利用でき、発電も行うことができるという、共存共栄の大事業となったのです。

西条大江口

 妙高市西条地内の中江開削以来の用水口で、当時越後第1の取入口でありました。用水の必要になる5月頃になると地元が水取組という請負制で行ってきましたが、その後、中江用水は板倉発電所経由になり、西条大江口から取水の必要がなくなりました。このため300年以上続いた水取組との長い慣行を双方円満な話し合いにより、廃止し、昭和61年解散となりました。
 西条大江口跡も公園として整備してありましたが、平成7年の大水害で現地は跡形もなく流されてしまいました。現在ある公園は、災害復旧工事に伴い、忘れ去られた関川への感謝の気持ちと、再び水害が起こらないことへの祈りを込めて久比岐野川街道・一里塚として新潟県により整備された物です。

大熊川サイフォン

 板倉区熊川地内にあり、中江用水開削当時は、大熊川の川水を取り入れるような平面交差の仕組みになっていました。
 この大熊川は、土砂のために川底が高くなり、その土砂を排除するために莫大な費用がかかっていました。この平面交差の悩みを解消するには、サイフォン以外に方法がないとして、板倉発電所建設の補償工事として昭和12年から14年にサイフォンに改造されました。
 その後、国営事業で用水路の工事が完成したにもかかわらず、このサイフォンだけは昔のままでありました。
 サイフォンの改修なくして国営工事の竣工はないとして、強力に陳情し、昭和59年4月に大熊川河川整備補償工事として、1億3千万円の巨費をもって完工しました。
 しかし、竣工したサイフォンは組合員の期待に反し、必要とする水量が得られませんでした。
 絶対水量確保に向けて、さらにもう1本のサイフォンの新設に向けて、県に強力な陳情をし、新大熊川サイフォンが昭和60年4月、1億円の事業費をもって完成しました。
 この2本のサイフォンのおかげで、3,000町歩の美田は永遠に水不足から解放されたのです。

稲荷中江用水路

 稲荷中江用水路は、古来、西中江用水として矢代川を堰き止めて、直江津までかんがいしていましたが、用水不足に悩み、関川を堰き止めて取水するようになりました。
 現在では、関川頭首工から取水した用水はサイフォンで矢代川を渡り、さらに矢代川頭首工で取水することによりかんがいしています。
 その重要な施設である水路・頭首工も、国営・県営事業で改修され、現在にいたっています。

関川頭首工

 塚田五郎右衛門が開削した稲荷中江用水の取水堰です。もともと草堰でありましたが、その位置は変更を重ね現在の位置になっています。
 また、関川頭首工は、関川の洪水などで幾度となく改修を余儀なくされてきました。昭和11年、昭和39年、さらに近年では平成7年の7.11水害により被害を受けその都度改修が行われてきました。

河波良神社

 河波良神社は、上越市仲町2丁目にあり、稲荷中江用水の恩人といわれる塚田五郎右衛門が開削に当たって鎮守の神としたいわれがあり、1812年に記録された稲荷中江用水開削の経緯と関係者15名の肖像を描いた古絵巻物が残されています。また、奥社の外囲いには、農作業の四季が彫刻されています。
 毎年、6月20日に例大祭が行われ、水飢饉と水害のない豊作を祈っています。

大道子安用水路

子安頭首工

 子安頭首工は、櫛池川に設置されていて、古くは子安堰と呼ばれていました。子安堰の歴史は古く、上江用水や中江用水よりも前に水利権を持っていたといわれています。
 櫛池川は、昔から暴れ川で、子安堰もその都度場所を変えざるを得ませんでした。1917年に櫛池川改修に伴い、コンクリート製の堰に作り替えられ、その後、昭和55年3月、国営事業で、自動開閉門扉3門の近代的な用水堰として現在に至っています。

大道子安用水路

 大道子安用水路は、もともと別所川から取水していた大道郷用水と櫛池川から取水していた子安用水と別々の歴史ある水路がありました。しかし、昭和に入り国営事業により、別所川からの取水を放棄し、櫛池川の子安頭首工のみの取水とする計画に統一され、国営事業・県営事業で、約6.3kmの大道子安用水路として改修され、現在にいたっています。
 国営事業当時は、590haの灌漑面積がありましたが、現在ではショッピングセンターなどの開発が進み、約360haとなっています。

参賀用水路

 参賀用水は、1672年に高柳村が、姫川原村にある取入口を設けて関川から水を引き、後々までこの用水を高柳用水と呼んでいました。また、妙高から薪炭を輸送するために拓かれたものが農業用水に転用したものといわれています。
 後に、美守・二子島が加わって3ヶ村用水となり、明治22年に3ヶ村が合併して、参賀用水となりました。
 その後、国営事業により関川右岸幹線用水路から取水するようになり、関川を渡る水管橋が建設され現在にいたっています。

青野池

青野池

 この池は、築造されてから約400年の歴史があり、その当時より農業用水として重要な役割を果たしてきました。現在では、受益面積140ha、湖面面積25ha、貯水量57万5千トンのため池で、平成22年に農林水産省ため池百選に選ばれています。
 湖畔には八重桜が植えられており、昔は、高田城跡のお花見が済んだ後は、青野池の花見で露店も出て、近隣の村々から多数の花見客で賑わっていました。